さて、ブログに何を書こうかな…と思うと同時に「面白いと思ってもらえるモノを書かなくちゃ」と思った途端に書くモチベーションが下がる自分が居る。
簡単に言えば、期待に応えようとするとそれが重荷になる。
つくづく思うのが、”期待に応える”などのキラキラしていて美しい言葉ほど呪いだよね。
期待に応えようとなんてしなくていい、ただ単に、自分がやろうと思ったこと、できると思ったことのベストを尽くせばいい。誰かの期待に応えようなんて思わなくてもいいよなって思うんだけどね。
そんなことをつらつらと。
期待に応えなくても良いと思う
期待はただの他力本願
そもそもとして、期待って何?
調べてみると…
あることが実現するだろうと望みをかけて待ち受けること。当てにして心待ちにすること。 https://kotobank.jp/word/%E6%9C%9F%E5%BE%85-50805
こう書かれている。つまりは、自分の力で何かを起こすのではなく、自分以外の誰かか何かがそれを起こしてくれることを待っている状態が”期待”というもの。
自分の中に居る”ワルたけし”はこう思うんよね。
「いやいや、自分でできないからって他人に求めんなよ。まず自分でできるようになれよ…あがけよ!自分でできないことは諦めろ!他人がしてくれるなんて甘えるな」なんて思うわけですが、まあこれも1つの期待ですね。
要するに、期待ってのは他人の身勝手な思いでしかないと僕は思っている。
それにこたえる義理も義務も本来はないよねって思うわけです。
期待は身勝手な欲
いや、それでも他人の期待に応えることは大切だよ!素敵だよ!!って思う人が居るとも思う。それもわかる。ただ僕はそちら側の感覚がいまいちわからない。
期待したとして、それが達成されなかったときに「がっかりだ」とか「裏切られた」とか言ったり思ったりするのだとしたら、すっごく身勝手すぎない?と。
自分にできないことを他人がやる。しかも、期待することはたいてい自分にとってメリットがあることだろうから、他人に自分のメリットになる何かを勝手に求めて、それが思い通りにならずにガッカリとか裏切られたとか、無茶苦茶すぎない?と。
つまり、「期待する」人は欲深くて身勝手な人では?と思ったりする。
なんでそんな身勝手な人の思いにこたえなくちゃいけないんだよ?と。
期待に応えようとすると奴隷化していく
期待に応えようとするというのは、誰かの支配下に自分を置くということを意味していると思っている。悪い表現になるけど、端的に言えば自分を奴隷化するということだと思っている。
- 「○○さんの期待に応えたから、あれでよかった」
- 「○○さんの期待に応えられなかったから、あれはダメだった」
日常的に出てくるフレーズかもしれないけど、良し悪しの判断が○○さんの期待に応えたかどうかである時点で、奴隷の発想なんじゃないかな?と。
でも、現実は違うよね?
例えば、自分自身がベストを尽くしていれば、期待に応えられなかったとしても全然ダメってことはないよね?とも思うわけです。
期待に応えられなかった | 期待に応えた | |
ベストを尽くした | B | ◎ |
ベストを尽くさなかった | × | A |
ベストを尽くすかどうかを基準に含めると、こんな感じで4つの結末が考えられます。
この中で◎はOKとして、他の3つは各々で評価したり考えるべきことがあるんじゃないかな?とも思うわけです。
- A … 期待に応えられたがベストではない。果たしてそれでいいのか?
- B … 期待に応えられなかったがベストは尽くしている。期待に応えてないからダメなのか?
- × … 期待に応えずベストも尽くしていない。ダメであるという結論だけど、それは期待に応えてないからなのか?
と、論点が各々にあると思うんです。
例えば…
Aの結果になっていればOKだったと言えるのか? 逆に、Bの位置だとそれはダメで、Aよりも劣るのか?
こんな風に考えると、期待に応えたかどうかだけを評価基準とすべきではないのでは?と僕なんかは思えてくるんです。
僕は基本的にBの位置に置くことができていれば良いと思っています。期待に応えていようがいなかろうが、ベストを尽くしていれば次につながると思っています。
でも、期待に応えることが全てなら省エネなAがベストという判断をしたとしてもそれは間違いではないと言えるはずです。
そんな風に、期待に応えたかどうかだけを判断基準にすべきなのか?それが現実的なのか?で色々と思うことがあるわけです。
期待は呪いだとも思う
親から子供への期待
よくある”期待”の例として、親が子供に期待をするってのがあると思う。
例えば、いい学校を出て、良い会社に入って…みたいなことを子供に期待するが、それって親本人ができなかったこと、満たされなかったことを子供に代行させようとしているだけだと思う節があります。
子供は親の期待に応えようとして、いい学校に入ったり、良い会社に入ろうとするかもしれないけど、それは子供のしたいこと、なりたい自分であるとは限らないよね?と。
果たしてそれが子供の幸せに繋がっているのか?と。
子供は親からの期待という名のコンプレックス解消ができなかったことで罪悪感を抱き、その罪悪感は、その子供が親になった時に同様に子に引き継がせることになるかもしれない。だって、自分がそうやって親からコンプレックスを受け継いだのだから。自分の子供が達成すれば、それは自分の手柄でもあるから間接的に達成したことにもなるはず。
そんな思いが子々孫々に受け継がれるかもしれないし、受け継がれているなら、それはよく言えば伝統や家柄、悪く言えば呪いです。
そういうモノの存在に触れると、「いやいや、親ができなかったことを子供にやらそうとすなよ」と僕は思ってしまいます。自分でできない事を他人がやってくれるなんて考えるなよ、と。自分の人生の中で自分でなんとかしなさいと思うわけです。
でも、結構そういう期待によってがんじがらめにされている人が多いのが現状で現実だとも思っています。
好きな事の中に”人のため”は含まれてくる
そのうえで、誰かの期待に応えようとしなくても良い。自分ができることを自分なりにやる。自分がやりたいことを自分がやる。それでいいと僕は思っています。
こう書くと、好き勝手に生きることになるのではないか?みたいなネガティブな方向に聞こえるかもしれない。
可能性としてゼロとは思わないけど、人間がうれしいと感じたり楽しいと感じる瞬間に”誰かの役に立った時”というものが含まれている限り、好きなことをやる!が誰かのためになる可能性は絶対にあると僕は思う。
感謝されたり喜ばせたりすることが好きだから、これを通してそれを味わえたらな…と意識的にでも無意識にでも思って行動すれば、好きなことをしてるだけで誰かの役に立ってしまうはずです。
絵を描くのが好きな人は絵を描いているだけで満たされる。それを誰かのために書いたら喜ばれるので、じゃあ誰かのために書いてみようか…となれば、好きなことをしているだけで誰かの何かの期待に応えているかもしれません。
加えて、自分がやりたいことをやるというのは、何かが上手くなるということに必ず繋がってきます。
大谷翔平がすごい理由を語ればキリがないとしても、その根本にあるのは野球が好きという思いだと思います。それが無ければ今の大谷翔平はないはず。まず好きという思いがあり、それに従って生きてきたら世界中の野球ファンを感動させたり驚かせるプレイができる選手になったわけです。
だから、まずは自分の好きなことを好きなようにやるということがあるはずです。それが上達していくことで誰かの喜びに繋がることがあるんだから、はじめから無理に期待に応えようなんてしなくていいとも思っています。
つまり…
僕はブログを書こうと思った時に「期待に応えるものを書かなくちゃ」と思った自分は大きな間違いをするところだったと反省し、そして、期待に応えなくていいやんけ!って自分に言い聞かせるために好き勝手書いたら1つの記事を書けました。
誰かの役に立つのかは知りませんが、役に立ったとしたら僕的には最高だし、役に立たなくてもベストを尽くせたのでまずOKです。今すぐにそれが何の価値も生まなくてもいいんじゃないかな?とも思っているからです。
例えば、今有名なミュージシャンの初期のボツ曲に価値を見出せないとしても、そのボツ曲があったから今があるのだとしたら、結果としてそのボツ曲は必要な養分だったってこと。でも、そのボツ曲を作った当時にその曲が誰かの役に立ったかなんて基準で判断していたら、そこで終わっていた可能性がある。
だから、今すぐに価値を生まなくても、今すぐに誰かの役に立たなくても別にいいんじゃないかな?と思うわけです。
好きな事をやっていれば、いずれ価値に繋がるかもしれないから、好きなことを続ければいいんじゃないかな?と。
誰かの期待に応えようなんてしなくても、続け、上達し、作り出し…を繰り返していけば、いずれ価値が生まれ、誰かの役に立つんじゃないかな?って思ってます。