兵庫県知事の斎藤知事へ辞職を求める声が大きい。
知事は職責を全うするという意思を表明されていて、その姿勢にもはや芯の強さのようなものを感じる。
ただ、それらの騒動に関して、自分は違和感しか感じていない。簡単に言えば、斎藤知事が責められる理由が見当たらない。
単に勢いがつきすぎてとにかく辞めることが解決だという流れになっているように感じる。世の中の声が大きい=きっと大きな問題なんだというセイヤーの法則が働いているだけという気がしないでもない。
もっと言えば、客観的な第三者が判断する制度や仕組みをもっと導入すべきでは?とすら思う。
斎藤知事の何が問題なのか
パワハラなどを告発する文書
何が問題なのかという本質の部分を見つけることにも少し苦労するぐらいにネットでの情報は混乱している。いろいろなニュースサイトを見ても、”ここから先は会員のみ”みたいなのが多くて、情報を得ることすら面倒な現状になっている。
そんな中であれこれと探ってみて問題だと感じているのは…
- パワハラやおねだりがあったとする文書を出そうとした職員が居た
- それを知事が見つけたが内容は嘘が多い、つまり誹謗中傷に近い
- 作成者を見つけ、決まりに従って懲罰を与えた
- 懲罰を受けた側が事実をねじ伏せられたとして自殺した
こういう流れで事態が進んでいて、複数の問題が混在している状態になっている。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20240906-OYT1T50152/
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOJE04C0O0U4A900C2000000/
その流れの中での論点や争点をまとめて次が問題の核心になっている。
- パワハラの有無
つまり、告発文書どおりにパワハラがあったのなら、告発文書は間違いでも誹謗中傷でもなく事実を訴える告発で、それを抑え込んだ知事は不都合な真実をひねりつぶしたとなる。
逆に、パワハラがなかったり、受け手が大げさにとらえすぎていたなどだった場合、告発文書は事実と違う誹謗中傷性の高い内容となるので、知事の対応は正しいとなる。
そして、それを確かめるために百条委員会が設置されて審理されているのが現状である。
そこで思うのが次のような点。
パワハラやおねだりが辞職に値するのか
パワハラやおねだりが辞職に値するのか?という点で、僕は疑問が残る。注意や警告を受けて改善を図るというのが落としどころとして最適な問題なのではないか?という気がしてならない。
「パワハラしてましたね、はい辞職ね」と辞職を求める側に強引さを感じ、これも一種のパワハラに見える。
それにパワハラというものは非常に主観的なものなので、最終的にはそれがパワハラなのかどうかは専門家が判断することになるはず。客観的に見て、それは立場の違いを用いた強引な要求であったり圧力であったりが確認された時に、パワハラだねとなるはず。
一方的な決めつけで進めるべき問題じゃない
この手の話を被害を受けたとする側だけの意見を信じて進めていくと、統治構造が機能しなくなるんじゃないか?と思っている。
例えば、「強く叱責をされましたから、パワハラですね」と言い出せば、ほぼすべての統治機能がまともに機能しなくなると思う。叱責されるに値する間違いがあった場合、それを叱責せずにいることは上の立場として正しいとは思えない。
じゃあ、弱く緩く叱責するべきなのか?となると、同じミスを何度も繰り返している部下がいるなら強く叱責するのは仕方がないんじゃないか?とも思える。
その”強く叱責した”という一場面を切り取って「パワハラですね、辞職してください」なんて言い出せば、上に居るものは叱責して部下を正すことはできない。でも、部下のミスの責任も被らなくてはいけないとなって、上に立っていることそのものが罰ゲームのようになる。
自殺者の有無は切り分けるべき
個人的には、「文書で訴えようとした人が懲戒を受けて謹慎中に自殺をした」という部分は、それはそれで分けて考えるべきだと思っている。
自殺をなさったことを残念には思いますし、遺族や近しい方は知事へネガティブな思いを抱くのは当然だとも思います。ただ、自殺をしたからそちらが正しいとする思い込みのようなもので物事をとらえるのも違うと思う。
自殺をしたとしても告発文書が嘘ならやはりそれは嘘です。
世論にある「亡くなった人がいるのに知事は辞めないのか?」という部分で僕が引っかかるのはそこで、亡くなった人が居たとしても事実は事実として客観的に冷静にとらえるべきで、亡くなった人が居るからという理由で事実を曲げてもよいとは思いません。
事実だし、間違った処分で自殺者が居ると確定した時に叩けばいいんじゃないかな?
今はまだそこまで確定していないなら、過度に辞職を求めたり、知事を徹底批判することは批判側が違う種類のパワハラをしているだけだと思います。
善悪の判断するための基準がおかしい
客観的な判断に基づいている?
総じて言えば、客観的に判断して事実が確定するまで待つ姿勢を日本人は今一度身に着ける時期だと思います。
今の段階では斎藤知事はパワハラをしたという認識はなく、むしろパワハラやおねだりを否定しています。告発者の声を守ることも大切なのと同様に、当事者が事実を否認したならそれを尊重することも大切なはずです。
そのうえで、白黒ハッキリさせましょうってことで百条委員会があるわけですから、そこでの判断を待てばいいのに、メディアやSNSではすでに罪を確定させて辞任を求める声ばかりが大きくなっています。
これはフェアじゃないし、ただ単に勢いだけが強い論調という気がして僕は懐疑的になってしまいます。何が何でもパワハラがあったとしたいという意思を強く感じるというか。
もっと冷静に、客観的なジャッジメントを下す仕組みや機能をもっと用いるべきだということです。
それができないからこそ起きた問題がここ1年でいくつかあります。
RIZINの平本蓮氏のドーピング疑惑
近いところで言えば、RIZINの平本連さんのドーピング疑惑はそれに該当すると思っています。
先日RIZIN側が潔白ですよってことを会見していましたが、あれで疑惑が完全に払しょくされたのか?というと払拭はされていません。むしろ、強引に黒の上に白色を塗って隠したと感じた人が多いはずです。
本人が何らかの薬物を入手した証となる書類、それを注射したのであろうと感じる音声が残っているのですからね。
でも、RIZINがシロと言ったからシロだと本人も言っていますが、この疑惑をちゃんと解決するには、第三者が間に入るべきなんです。
アンチドーピング協会がRIZINのドーピング検査のレベルはどの程度なのかを説明し、平本連氏をアンチドーピング協会が検査をして結果を出す。これを実践していれば、今よりも圧倒的に多くの人が、「じゃあ白か…」と思えたはずです。
当事者や関係者がシロやクロを判断しようとするから問題がややこしくなります。
性加害疑惑の伊藤純也氏と松本人志氏
さらに言えば、サッカー男子日本代表の伊藤純也氏やお笑い芸人の松ちゃんの性加害報道もそうです。
週刊誌が性加害を報じ、記事に自信があるとしていたが、伊藤純也氏の騒動に関しては伊藤純也氏はシロである可能性が高いという状況になっています。女性側が被害訴えを取り下げ、なおかつ伊藤純也氏は虚偽告発で被害を受けたとして週刊誌と女性を刑事告訴しています。
この動きが大切です。
伊藤純也氏がシロかどうかはその刑事告訴を通して司法によって判断がなされます。週刊誌側の一方的な記事だけで事態の白黒は確定しません。
松ちゃんも同様です。裁判がまだ継続中ではありますが、司法を通して事実か否かが判断されます。現時点では何も事実かどうかが分かっていません。週刊誌が書いたからはイコール事実とはなりません。
でも、日本人はメディアが報じたからそれが事実だと思い込みすぎている節があるようにも思います。
なので…
斎藤知事が実際にパワハラをしていたのかどうかはわかりませんし、上記で書いたように、一方的な意見を根拠も乏しいままで決めつけている空気に僕は強い違和感を感じています。
僕は斎藤知事が悪いことをしたと確信をもって否定的な立場に立つことはできません。ただ、根拠の乏しさのわりに空気だけは強い圧力があるので、斎藤知事に不利な状況を作り出されただけでは?という見方で見ています。
だから、現時点では、斎藤知事が辞職をしないという判断をしたことを支持します。
加えて、メディアやネットの一方的で断片的な情報ですぐに判断を下すのをいい加減やめたほうが良いんじゃないかな?とも思う。すごくダサいし。
証拠が乏しい意見や情報はデマの可能性も相応に高いということだと、義務教育レベルで教え込むべきだとも思う。
ましてや当事者や利益関係者だけで白黒のジャッジを出そうとしているなら、それも怪しむべき。その人たちが自身が不利になるようなことを言おうとするわけがないんだから。
だから、第三者の存在で客観的な証拠に基づいた判断が重要で、そのために司法をはじめとした仕組みや組織があるという基本をもう一度確かめる時期だと思う。