無駄を省こう、合理的にしよう。そんな価値観は正しいように思うし、僕もどちらかというとそちらの価値観よりの人ではある。
でも、無駄って何?と考えると、結構答えに窮する。
もしかして、無駄なんてものはなくて、あるとしたらマッチングが上手くいってないってだけでは?
そう思うからです。
つまり、無駄はないのでは?と思うってことを思ったのでそれを。
無駄って思っている以上に必要なんじゃないかな?思う理由
数や量が全て説
結局は、数や量が全てという部分があるんじゃないかな?と思うし、それって無駄に積み重ねの上にあるんじゃないの?と思う部分がある。
例えば、このブログ記事。無駄を排除しようと思ったとたんに筆が止まる。そして、俺に無駄じゃないことを書けるわけがねーだろと我を取り戻してまた記事を書いている。
無駄を恐れると、無駄を減らすために行動をしないなんてことが起こりえる。
すると何が起きるのかというと、何も生み出さないし、何も上達しない。つまり、何も良くならない。全然いいことが起きない。少しの無駄を恐れただけで失うもの、取り逃がすものがでかい気がするんだよな。
昔から圧倒的な量が質を生むっていうように、量が質に繋がっている。めちゃくちゃ練習するからうまくなるし、めちゃくちゃ勉強するから賢くなる。量がなければ質は上がらない。
無駄を恐れちゃ質は上がらない。
メリハリがつく
これ、先日ラジオで聞いてて「おー-!」と感動したんだけど、ある落語家さんがキャリアを重ねてわかったことに「無駄だと思う部分が無駄じゃなかった」ということがあるんだって。
ある古典落語をしていると、どうしてもこのくだりが要らないと思うんだよな…お客もそこでダレるような気がするし…と感じる部分があったけど、古典落語だから忠実に教えられたとおりにやっていた。
すると、ある日ふと「あの無駄があるから、話にメリハリがついてるんじゃないか?」ってことに気づいて、そこから、その無駄は無駄じゃなくて、話を面白くするために必要な、なんなら不可欠な部分だったんだ…って気づいたらしい。
結構これはプロの噺家さんやキャリアを重ねた芸人さんなどは感覚的にわかっているそうで、ずーっと面白いことばかり言おうとすると、逆につまらなくなる。無駄な部分、つまらない部分をわざと入れることが面白さにつながるってわかっているらしい。
無駄は無駄じゃない。
何が無駄かは不変じゃない
上記の話とリンクするけど、何が無駄かってのは人の価値観しだいで随分と変わる。
無駄だと思っていたけど、これがなくなると全体がスケールダウンする…と気付いた落語家さんのことを上記では書いているけど、これは話の中身が変わったわけではない。その噺家さんの価値観が変わったから気付けたこと。
何が無駄かなんてのは、時々の常識や人それぞれの価値観で変わることがある。
盲腸は要らないなんて言われていたけど、盲腸も実は役に立っていたということが最近わかってきたりもしている。つまり盲腸いるやん!になっている。
何が無駄なのかも時代時代で変わる。
なので…
そうやって考えていくと、無駄なんてものはあってないものなんじゃないのかな?とか思うわけです。
働きアリも2割は働かないと言います。で、これが無駄なのかというとそうじゃなくて、緊急時はその2割もフル稼働するそうです。つまり余白としてあえて残している無駄だったりします。
こと人間においては、無駄な人なんていないんじゃないかな?と。
無駄と感じるのはマッチングがうまくいってないという状態のことを指しているだけで、マッチングを整備すればうまくいくなんてこともあるでしょうし、無駄と感じるような人がいるからこそ全体が得られているメリットもあるかもしれません。
逆に言えば、マッチング不備が起きている箇所を”無駄”と感じるのかもしれません。
お金の無駄遣いとか食べモノの無駄にするとか、そういう無駄は減らしたほうが良いのは間違いがないけど、無駄遣いも何が無駄なのかは価値観やその後その体験をどうするのか次第の部分もあるし、食べ物の無駄も例えば中国の方からすると少し残すのが礼儀で全部食べるのは失礼と言われていたりもする。
また、食べ物の無駄があるからこそ生まれる工夫なんてものもあるんじゃないかな?と違う角度で価値を見直すと、決して無駄ではないのでは?とも思うわけで。
なので、それを無駄だと感じるだけで、実は無駄なんてものはそうそうないんじゃないかな?