「好きの反対は嫌いじゃなくて無関心。嫌いってことは本音では好きだから」
これを面と向かって言われて思ったことがある。
いや…嫌いは嫌いだわ。無関心は無関心。別物です。
哲学的なアプローチ、心理学的なアプローチで”好きの反対は嫌いじゃなくて無関心”ってことをテーマにした議論があることは薄くは知ってるけど、それでもやっぱり好きの反対は無関心ってのは間違っていると思うし、こういう解釈をする人間って何事も身勝手に解釈してハラスメントや犯罪を起こすんじゃないか?とすら思っている。
好きの反対は無関心ではなく”嫌い”
比較の階層が違う
好きの反対は嫌いであって、好きの反対は無関心ではない。絶対に違う。 だから、嫌いなものは嫌い。無関心は無関心。
平たく言えば階層が違う比較でしかないと思っている。
- 反応 ⇔ 無反応
- 反応がある … 好き ⇔ 嫌い
- 無反応
こういうことだと思っている。
反応があるのかないのかという階層があって、好きや嫌いは反応に含まれる。ただ、反応があると言っても好きと嫌いは同じではないから、好きと嫌いに分けられている。
これを、好きと嫌いは同じだからと乱暴にくくる考え方が「好きの反対は無関心」という考え方。
嫌いは嫌い
なんでこんな事をわざわざ書いているのかというと「嫌い」と無関心は違うとしか思わないから。”好きの反対は無関心だから”みたいなことを言う人を見ると、「本気?」と問い詰めたくなる。
だって、違うやん。好きの反対は嫌い。無関心は無関心。別物やん。
なのに”「嫌い」は好きでもある”みたいな謎解釈をする人が居ることが理解できないし、だからこそ起きる問題があるとも思っている。
例えば、ゴキブリが嫌いな人に対して「その人はゴキブリを本音では好きなんだ」と解釈をする人が居ないはず。でも、嫌いは好きの一部なんて思う人に、ゴキブリは嫌いと言っても通用しない。こんなの地獄やん。意味が分からん。
嫌いだと言っても「好きの反対は無関心だ」とか言い出しかねない。
嫌いなものは嫌いだし、嫌いなものに関心を持つなんてこともまずない。ゴキブリが嫌いだからってゴキブリに詳しくなるなんてことはまずない。嫌いなものをあれこれ微に入り細に入り調べようとはしないだろうに。
なのに、好きの反対は無関心だと信じ込む人にはそれがわからないらしい。
ハラスメントがイヤだと伝わらない
「イヤよイヤよも好きのうち」なんて言葉があるように、イヤだと意思表示をしてもそれは好意の裏返しととらえていた時代があるし、そういう人も居た。
今の時代にこの感覚は途端に捕まる。なぜならハラスメントを犯す人のマインドの根底はそれがあるから。
- ボディタッチや性的な話題を嫌がっているけど、実は好きに違いない
こういう解釈を平気でできたりする。「本当に嫌なら反応しなければいいよね」みたいなことを言い兼ねない。当然、イヤなものはイヤなんだけど、その判断を曇らせる。
何が発端で誰が広げているのか知らないが「嫌いは嫌い。好きの反対は嫌い、無関心は別物」という当たり前の価値観を再度世間に広めて上書きしていくほうが良いと思う。
嫌いが好きになることがあるというが…
「そうはいっても、嫌いと言いながら好きとなることもあるよね?」みたいなことを思う人もいると思うけど、厳密に言えば、これは時間軸が違うはずだし、必ずしも好きになるわけじゃない。
例えば、小さなころにピーマンが嫌いだったけど、大人になると嫌いじゃなくなったみたいな話はよくあるけど、これってピーマンが変わったわけではない。味覚が変わるにつれて食べ物の好き嫌いが変わっただけのこと。
でも、それは同じ瞬間に起きているわけじゃない。嫌いと思う時もあったけど、時間が経って好きになっただけ。
そして、すべての人がそう変化するわけじゃない。グリーンピースが嫌いだった弟はずっと嫌いなまま。嫌いが嫌いなままという事も当然ある。
今後嫌いが好きになるのかなんてわからないけど、今嫌いなら嫌い。それ以上もそれ以下もないはず。
逆に、昔は虫を平気で触れたけど、大人になって嫌いになる人も居る。昔は好きだったんだから、たとえ今虫を嫌いだと思ったとしても、実は好きだよね?みたいな問答は通用しないはず。
昔は好きでも今は嫌い。嫌いなものは嫌い。これもやはり、それ以上でも以下でもないはず。
なので…
「好きの反対は嫌いじゃなくて無関心」なんて謎理論は早々に市民権を失くしてほしい。
嫌いは嫌い。
嫌いな食べ物を「実は好きなんでしょ?だって嫌いは無関心なんだから」みたいに受け止めて嫌いな食べ物を振る舞ったら、確実に嫌われる。そこでさらに「嫌いとか言ってるけど実は好きなんでしょ?だって好きの反対は無関心なんだから」と言ってのけると100%嫌われるし頭がおかしいと思われる。
”好きの反対は無関心”は大間違い。
単なる独りよがりの迷惑な理論だから、やめろ。